長崎は今日だけ雨なのだ

2003年5月25日

長崎県北松浦郡小佐々町

 やっと停滞している。場所は長崎県北松浦郡小佐々町。わかりやすく言うと、佐世保市のちょっと北である。なぜここにいるのかというと、24日の朝、しんのじさんが神浦にあらわれて、
「今夜、宴会があります。」
と言ったからにほかならない。昨日は、佐世保市の手前、大島にでも入ろうとしていたのだが、急遽予定変更、さらに20キロ漕いで、佐世保の北まで来たのだ。もちろんのこと、昨夜はさんざん飲ませてもらって、今は九十九島シーカヤック倶楽部漣(さざなみ)レンジャーズのクラブハウスで、固い壁と屋根に隠れて、テレビなんぞを横目で見ながら、パソコンをたたいているわけだな。

 というわけで、ひとまず落ち着いたので、この7日間、いったい何をしていたのかを書く。
 この7日間、ともかく漕ぎに漕いだ。漕行距離300キロ。1日平均42.8キロ。天気がいいときは漕ぐ!と宣言していたものの、よく漕いだもんだ。

 さて、今回の漕ぎ初日は17日である。東風が少々吹いている中、行け〜と出ていった。坊岬を軽やかにかわし、北に進路を向けた。この日の目的地は野間池というところであった。しかし、風に乗ったせいもあって、野間池の沖に着いたのは昼であった。次の港は30キロ先。この調子で行けば、日没までに行ける距離である。しかも、この時、潮が逆に2キロほど流れていて、まもなく追い潮にかわるはずであった。となれば、さらに速度がのるはずで、日没には十分余裕を持ってつける、と読んだ。念のため、近寄ってきた漁船にも聞いてみたが、もうすぐ潮がかわるから、それに乗ればいいぞ、という答えが返ってきた。
 ところが、である。それから3時間ほどたって、潮がかわっていいはずの時間になっても、追い潮はまったく現れなかった。GPSはずっと3キロをさしたままでである。追い潮になれば、6キロは出ると読んでいたのだが、半分しか出ない。これはいかんぞ〜と思いだしたときには、すでに10キロほど出ていた。残り20キロ、戻っても10キロ。うーむ。
 結局、戻る気がしない、という理由でこぎ続けてしまった。日没を過ぎるのはわかっていたが、せいぜい日没後1時間。8時ぐらいには入れるだろうと、希望的観測を持っていたのである。しかし、こともあろうに潮がずーっと逆に流れていた。つまり入港するまで3キロしか出なかった。江口漁港入港11時…。

 しかし、翌18日。朝5時に起きて7時には出港していた。この日、温泉のある阿久根まで行きたいと思っていたのだが、出てみると、やはり潮が北から南に流れていて3キロしか出ない。さっさと阿久根行きをあきらめて、川内に入った。地図によると、川内にも温泉があったのだ。ところが、またしてもこの温泉は2年前に閉鎖されていた。がっくりと肩を落としたのだが、それでも運のいいことに、造船場の人が車で買い物に連れて行ってくれた。自転車で行こうと思っていたのだが、行ってみたらとんでもない距離で、大変助かった。

 19日、当然行き先は温泉、いや、温泉のある阿久根である。距離は短いが、この先は天草まで行くので、いったん阿久根に入らないと、次に進めない。よろよろと阿久根まで漕いだ。
 阿久根に入ったら、さっそく温泉である。何はともあれ、温泉に飛び込んで、潮を落とした。
 やっと落ち着いて買い物に行き、夕食を作っていると、ご近所の方からご飯の差し入れがあった。ああ、こりゃあすみません、と受け取って、河童が作ったスパゲティと一緒に食べていると、今度はおかずの差し入れをくださった。結局、2食分ご飯を食べて、おなかが一杯になった。そこへ、ご飯とおかずをさしれてくれた方が夕涼みに出てこられて、あれやこれや話をすると、なんとこの方のお兄さんが、次の目的地、牛深で造船所をなさっているとか。次はここに入ればいいよと言われ、こういうこともあるのだなあ、と感心して寝た。
 ところが、阿久根はこれですまなかったのだ。翌朝、出航の準備をしていると、今度は朝ご飯が出てきた。阿久根にはいい人がおおいのである。ありがたくいただいて、残った分をフネに積み込んで出かけた。

 牛深では、言われたとおり造船所にフネをおかせてもらって、自転車を組み立て、町を見に行った。小さな町なのだが、スーパーや電気店、コンビニと一通りそろっている町で、便利が良かった。ここの港は、八代海側と東シナ海側に水路で結ばれていて、翌日そこを通って東シナ海側に抜ける予定だったので、その水路も見てきたが、距離は短いが、どう見たって潮時を合わせないとけっこう流れていそうで、どうしたものかと思ったが、行くしかないのだ。

 翌20日、朝その水路を通ったのだが、思った通りしっかり流れていた。わずか200メートルほどなのだが、川のようになっていて、もちろん逆潮である。川は真ん中が流れが強くて、すみの方は流れが弱いんですよねえ? 足立先生、などと思いながらすみっこを通ったんだが、ぐにゃぐにゃに流れていて、どこが強いのやら弱いのやらわからないまま通り過ぎてしまった。こんなところでフネを流して、正確な速さを計ることなどできないわけで、通り抜けるのが精一杯である。
 そして、天草の西側を通って、天草下島の北端、富岡の港に船をあげた。天草といえば、隠れキリシタンの本場なのであるが、今通っても緑が多く、見分けのつきにくい地形であった。当時の南蛮船がいったいどうやってここにアプローチしたのか謎である。ところどころにある民家は、山にへばりつくように建っていて、いったい400年前にここでどんな生活があり、どんな救いを求めてキリシタンとなったのか、河童にはよくわからない。
 この日、すっかり漕ぐのに飽きた河童は、長崎放送を聞いていた。すると、なにやら旅の話題を募集していた。どうせヒマだし(?)、旅の話なら河童が電話してもおもしろかろうと携帯をかけると、なんと通じてしまった。実はかくかくしかじかで旅をしております、というと、すぐラジオに出てくださいといわれ、いきなりラジオ出演である。ラジオには何度か出ているが、海の上から出るのははじめてである。ずっと動き続けてあきていて、べらべらしゃべり続け、2〜3分というのを5分近くも話してしまった。
 後日談であるが昨日(24日)、佐世保の近くで釣り人から声をかけられ、
「あんたか〜、ラジオに出ていたのは?」
といわれてしまった。地方はラジオ局の数が少なく、聴視率がかなり高いので、こういうことがよくおこるのである。

 さて、書くのもだんだんめんどうくさくなってきたので、適当にはしょる。21日は天草から長崎半島に渡り野母崎に入った。予想外のことに、ここに温泉があったので、早速入りに行った。ますます温泉巡りである。
 23日は、軍艦島の横を通って北上し、神浦に入った。ここはなかなかにおもしろい町で、古いとおりにはおもしろい看板がたくさん残っていた。

 そして24日、朝、しんのじさんがあらわれ、宴会に誘われた河童は、予定を通り越してここまで来たのである。まあ、よく漕いだ。今日はここの人たちが漕ぐのをながめながら、ゆっくり休むのである。明日は平戸に行こうと思っているが、もし、この更新がアップできれば、平戸を通り過ぎて、九州北岸に出てしまおう。そうすれば、いよいよ日本海。やっと追い潮に乗れるぞ〜。

川内原発の前に浮いていた巡視船。
ちなみに河童はフリーパス。
手を振ってくれた。
川内の造船場。
みんな飛ばすんだ、ここ。
阿久根の記念写真。
ども、ごちそうさまでした。
牛深の石原造船。
この橋の下を抜けて東シナ海側に出る。
流れていないわけがない。
野母崎であったヨット、ハーバーライト。
沼田さん、井上さん、池田さんの3名で
種子島の方まで行かれるそう。
軍艦島。
長崎半島からすぐ。
こんなに近いと思わなかった。
神浦で見かけた看板。
どこに電話すればいいのだ?
神浦でしんのじさんと。
もちろん、この夜またお会いした。
で、夜の宴会だな。
ひさびさに、翌日を気にしない夜であった。