ついに津軽海峡突入!

2002年9月28日

青森県大畑町

 ふう。ついいましがたまで土木作業をしていた。荷物を運ぶのがめんどうという理由で、ちょっと低めの所にテントをはったら、大雨が降ってテントが水没してしまった。防水がしっかりしているので、外に出て初めて事態に気づき、あわてて雨の降る中で溝を掘った。おかげで乾いたものがなくなってしまって、シャツもパンツもじっとりとしまったままで気持ちが悪いことこの上ない。いやはや、雨の日はしょうがない。

 さて、25日から更新が飛んでいるので、26日のことから書かないといけないな。
 26日は、尾鮫を出て、白糠というところへ行く予定であった。ところが、この日悪いことに風が南から吹いていた。しかも、潮まで南から流れていた。この二つが相まって、予定の白糠に昼についてしまったのである。白糠の少し手前でフネを流しながら、GPSの表示を見てしばらく悩んだ。というのは、白糠を越えるとしばらく砂浜が続き、この間は防衛庁の射爆場などがあるだけで、入る港がない。尾鮫ー白糠18キロで、白糠から次の港までが27キロあるのだ。それまでの平均速度が時速6.3キロ。6キロとして計算しても、日没の6時までにはまだ余裕がある。仮にかわうそ号巡航速度の5キロまで落ちたとしても、日没までにはなんとかつける距離である。これまでにこの辺りの天気からすると、風は午後になるとあがってくる。となれば、もっとスピードが出ると予想される。ただし、潮は地形の関係上、また逆潮になる可能性が十分にある。などと、じっと考えていたのだが、河童の勘は進めといった。そこで、日没までに27キロ(これだけでかわうそ号の一日分の行程としても十分である)こぐと決めて、白糠を後にしたのだった。
 そして、予想通り風は上がり、潮は途中から消えて、日没とほぼ同時の5時半、尻労に入港した。まず、港にいた漁師に、尻労をなんと読むのか尋ねた。ちなみに、これで「しつかり」と読むのだそうだ。現地語では、「し」は英語のthの発音で、「つ」はtuの発音である。語源がアイヌ語らしいのに加えて、例の下北弁が混じるので、正確な発音が発音記号でしか表せないのが残念である。
 そして、この港に一泊。翌朝、いよいよ尻屋崎越えである。

 27日の朝は、波が悪かった。網をあげに言った漁師に、
「今日は無理だっぺ」
と言われたのだが、昨日の夕方よりも波は落ちている。昨日、入ってくるときは追い波で大変だったのだ。それに比べれば、たいしたことないと思ったので、さっさと出港してしまった。尻屋崎をかわせば、あとは流れこそあれ、湖みたいなものだと聞いていた。
 ところが、いざ北へこぎだしてみると、うねりと潮がぶつかって、たいへんな波になっていた。まわりは一面2メートルの三角波が取り囲んでいる。漁船がつぎつぎと北へ向かっていくが、その波の間に入ってしまってすぐに見えなくなる。たぶんこっちのことは、もっと見えていないはずだ、と思ったのだが、このとき、かわうそ号のことは、漁師の間でうわさになっていたらしい。ピンクの旗(尾鮫で旗をピンクに交換したのだ)を立てたへんなものが尻屋崎近辺で浮いていると、無線が飛び交っていたそうだ。
 そうとは知らず、あばれるかわうそ号をなんとかなだめながら、尻屋崎に近づいた。尻屋崎の向こうに岩が出ている。本来であれば、岩の向こうを通るのが安全策なのだろうが、津軽海峡には日本海側から太平洋側へ流れる、猛烈な海流がある。海峡の真ん中あたりが一番早く、岸に寄るほど影響がないと聞いていた。岩の向こうまで回ると、この潮に押される可能性があった。岩と岬の間を通りたいのだが、ここのあちこちで波が白くなっていた。なんとか通れるルートがないかと目を凝らすと、なんとか通れそうなルートが見つかった。それっと入っていったのだが、右に左に変針しながらこいで、ふと下を見ると岩が見える。こういってはなんなのだが、ヨット乗りの性分で、そこが見えるととたんに不安になるのだ。もちろんかわうそ号は、水深30センチもあれば問題ないのだが、何しろヨット歴の方が長い。ヨットの場合、水深5メートルをきるとなんとなく尻の下がむずがゆくなってきて、底が見えたりなんかしたら、生きた心地がしない。小笠原とかグアムとか、10メートル、20メートルが平気で見えるところへ行っていても、やはり「底が見えるぐらいに浅い」というのは心配なのだ。ただでさえ、シリアスなこの尻屋崎で、河童がいったいどんな心持ちだったかは想像におまかせする。

 そして、尻屋崎をこえると、本当に津軽海峡は湖みたいだった。南からの風は吹いているものの、先ほどまであったややこしい波はすっかり消えていた。やれやれと、そこから22キロこいで、大畑の港に入った。始め海に面した港に入ったのだが、ここより川の港に入れと言われ、また20分こいで川の中にある港の一番奥、元造船所のあった所へフネを入れた。すぐさま近所の人たちが集まってきて、なんだかんだとフネを引っ張り上げるのを手伝ってくれて、ついでに夜は一杯飲もうと誘われ、それならというので別の漁師がヒラメを食べろとヒラメを4枚も持ってきてくれて、これをさしみにして、この晩は注がれるままにビールを飲んでいた。いや、昨夜の話なんだけどね。

 それでもって、ようやく今日の話になる。午後から雨になりそうなので、停滞を決め込んで、恐山に行って来た。なんといっても青森県下北半島といえば恐山である。そこで、バスに乗って行ってきたのである。河童のいいところは、ガイドブックなどまったく読まず、予備知識なしでこういうところへ行ってしまう。非常にピュアに刺激を受けるのである。以前も、ガイドブックなど何にも読まずにタイに遊びに行ったことがあって、この時は帰ってきてからガイドブックを読んで旅行記を書いた。
 恐山は、まあ恐山で、思っていたような所だった。まあ、ようするに恐山なのである。
 恐山を一回りして、帰りのバスを待っていると、なにやら待合所で係りのおばさんが辞書を持ってうろうろしている。何かと思って聞いてみると、言葉が通じなくて困っているという。見ると、行きのバスで一緒だった、バックパッカーの女の子が1人たっている。顔を見ると日本人である。いくら何でも下北弁が通じないってことはないだろうと思っていたら、そうではなくてこの子が日本人ではないということだった。うーん、顔からすると中国人か、韓国人なので、そうするとめんどうだなあと思ったが、一応英語で話しかけてみると、オーストラリア人であった。しょうがないのでおばさんの話を通訳しながら、ついでにあれこれ聞いてみると、2ヶ月の予定で日本に旅行をしに来たのだそうな。ふーん、英語通じないからストレスたまるでしょ?などなど、彼女の聞き取りにくいオーストラリア英語を聞きながら(河童のかつての努力は、こういった機会に報われる。その昔、オーストラリア英語のヒアリングに熱意を持ったこともあるのだ)むつまで帰ってきた。バスターミナルで、
「まあ、ランチでも一緒にどう?」
と言うことになって、二人で昼を食べに行った。読者はこの後の展開を期待するであろうが、河童はこれ以上のことは何も書かないのである。

 そうして、いい気分で帰ってきて、しばらくテントで寝ていたら、冒頭の土木作業になってしまった。やはり恐山に行ってきただけのことはあって、極楽と地獄を同時に見てしまうのである。

これが尻労。
戸数120戸の集落だが、
道路がすごかった。
太平洋側から見た尻屋崎。
いや、波の悪いこと。
津軽海峡側から見た尻屋崎。
こういうものなのである。
恐山の河童。
この写真だけ見ると、タヒチの
河童さんといってもばれまい。
まあ、恐山はこう言ったところが
あるんですよ。