北上高地棲息中

2002年9月2日

岩手県下閉伊郡宮守村

 地図で見てもらうとわかるが、宮守村というのは北上高地の内陸部、遠野よりもさらに陸に入ったところにある。海沿いを走っているはずの河童が、どうしてこんな内陸部に入っているかというと、ここに知り合いのN盛氏が、古い農家を買って移り住んでいるからだ。昨日、N盛氏の故郷、船越に入り、そこにいるN盛氏の親戚にかわうそ号を預け、河童は宮守に来ているのである。

 それにしても、この3日間は激しい3日間であった。まさに劇走である。

 8月30日に、夢也さんに御崎岬の先端まで引っぱっていってもらい、重い腰を上げたものの、この日は東の風と波が強くて、まともに漕げるような状態ではなかった。かといって、また戻るわけにもいかないと、必死に漕いだのであるが、5時間漕いで唐桑半島の向こう岸、広田というところについただけだった。岬をぐるっとまわっているのでなんなのだが、直線で移動した距離をはかると9キロにしかならなかった。

 8月31日は、朝7時に広田を出て、夕方の5時まで漕いで、吉浜湾の根白という港まで39キロの劇走である。このあたりはさすがに三陸、リアス式海岸の本場で、そのスケールに圧倒されて、こちらの感覚が狂う。なにしろ岬の山が300メートル、400メートルの高さなのである。普段だと、だいたい見える岬まで5キロ、1時間でつくななどという感覚で走る癖がついているのだが、ここの岬はこいでも、こいでもまだつかない。地図を見ているので、当然距離はわかっているのだが、見える岬がなかなか大きくなってこないのにはまいった。
 もう一つまいったのは、リアス式海岸の深さである。吉浜湾の南、首崎をかわしたのが午後3時。根白入港が2時間後の午後5時なのである。どういう具合なのか吉浜湾の中は、波長の短いチョッピーな波が立っていて、まったくスピードが出ない。風のせいかとも思ったのだが、翌日も同じような波が立っていて、吉浜湾を出てしまうまではひどい波だった。ただの風波でもないようだし、どうも変なところである。

 そして、いよいよ9月に入ってしまった1日、この日ははたして船越まで行けるかどうか、非常に微妙な線にあった。船越までの距離35キロ。ところが、前日の平均速度が3.5キロなのである。単純にいえば、10時間こげばいいという話になるが、昨日も10時間こいでいるのだ。その前日も5時間、強い横風の中走っているし、そうそうこげるわけがない。
 ところが、波の悪い吉浜湾を出て、死骨崎の沖に仕掛けられた定置網の上を抜けると(実はこのロープの上に、どういうわけかかわうそ号がのっかってしまい、もう少しで危ないところだった)強い追い風が吹いていた。これ幸いとばんばんとばして、なんと午後2時には船越入港である。海面が白くなりかけるぐらいの風が出ていて、さすがにパドルがはなせなかった(ようするに休憩がとれなかった)が、柄沢さんに作ってもらった特大サイズのラダーがよくきいて、うねりの中でも進路を保てたのが大きい。やはり、ラダーはでかい方がいい。

 で、N盛氏に迎えに来てもらって、昨夜宮守村に着いたのである。いやはや、すごいところで携帯電話が通じない。また、ここの話は明日にでも書くつもりでいる。ここが最後の知り合いの所なので、またしてもしばらくやっかいになるつもりなのである。

 

30日の海。
広田漁港。
この巨大な防波堤は、津波よけである。
湾をひとつはさんで宮城県なのだが、
宮城県側にはこういうのはない。
行政的には、津波は岩手県で止まるのだ。
遙か彼方にうっすらと岬が見る。
ともかく遠いのだ。
見えてもつかない。
このあたりの気象はよくわからない。
これも、山の中腹からガスがかかっている。
風は山の左から右に吹いている。
水温20度であった。
吉浜湾内の波。
ずっとこんなふう。
岩に当たって跳ね返ってくる波と干渉して
こうなっているのか、海底の形状なのか、
さっぱり理由がわからない。
結論はただひとつ。こぎにくい。
これが吉浜湾を出るところにあった定置網。
まさかこのあと、このロープにのっかって、
身動きがとれなくなるとは思ってもいない。
1日の海。
荒れている時にとっても、なかなか写真だと
荒れているように見えない。
このあと、さらに風が強まって、写真どころ
ではなくなった。
船越のN氏の親戚宅でごちそうになった
あるもの。
塩味が絶妙で、ビールが進むのだが、
さて、これはなんでしょう?
宮守村のN盛氏宅。
断っておくが、赤い屋根は納屋だ。
こんな所です。
まだ、まわりに遊びに行ってないので、
まわりのことはよくわからない。