背中の痛む3日間

2002年8月10日

宮城県志津川町

 3日分まとめて書くけど、またしてもH”が通じないので、写真は後でつけます。とりあえず、文字だけ送っておきます。なかなかこの3日間もハイペースで、90キロほど漕いだ。あげくに今日は浜上げで、ひさびさにかわうそ号を砂浜に引っぱり上げて、背中の筋肉がぎしぎし音を立てております。そのかわり、自作仲間の小屋を借りていて、固い壁と屋根がある。おまけにさっき、トラックの鍵を見つけてしまって、車まで使えるようになってしまった。明日は、もちろん停滞ですとも、ええ。

8月7日 七ヶ浜町→牡鹿町田代島
 お世話になった宮城外洋帆走協会の小浜フリートを、朝7時に出発。朝早いのに、石塚くんが見送りにきてくれた。おまけに、ヨットの中から缶詰を持ってきてくれた。前日も、彼の運転でスーパーに買い物に連れて行ってもらったのだが、その時に「こんな高いの買えないよ〜!」とさけんでいたカニ缶、ホタテ缶も中に混じっていた。なにか、記念の時まで大事にとっておこう。カニ缶なんて、食べたことがない。

 さて、田代島というのは、牡鹿半島の西にある小さな島である。ハーバーから、まっすぐ東に漕いでいけば30キロで着くはずだった。とーころがところが、石巻湾は潮の流れがむちゃくちゃで、湾内を潮目が蛇行している。GPSを見ていると、順潮になったり逆潮になったり、まったく安定しない。潮を避けようにも、どっちに逃げればいいのかさっぱりわからない。こういうときは迷わずストレートというのが、河童のナビゲーションなので、ええい、まっすぐだ〜とGPSの指示だけを見て漕いでいった。
 午後にはいると、南東の風が吹き出してきた。また、逆風である。いつものこった〜とさけびながら、時速3キロで東へ進む。予定では午後1時頃入港予定だったが、結局ついたのは午後4時過ぎ。さっさく、水浴びをしてキャンプの用意をした。ところが、この水浴びの時に失敗して、いつも着けているウエストバックの中身を濡らしてしまった。ウエストバックの中には、財布が入っている。以前、荷物を全部載せたまま船を沈めた人が、着の身着のまま浜に流れ着いて大変だったという話を聞いてから、財布とか免許証とかはウエストバックに入れて持ち歩くことにしているのだ。これが失敗で、夜、缶コーヒーを買おうと財布を出したら、運の悪いことに100円玉がない。千円札を使おうと思ったのだが、濡れているせいか、入れてもはき出される。1台ためしてみてダメだったので、少し離れたところにある別の自販機でためしてみた。ところがこれもダメだった。ここであきらめれば良かったのだが、ここには自販機が2台並んでいた。つまり、ためす機械がもう1台あるわけだ。当然、3台目に濡れた千円札を入れてみたのである。やはり、この機械でもダメだった。うーむ、どうやら自販機は、濡れた千円札が嫌いらしい。ところが、嫌いならさっさとはき出せばいいものを、3台目の自販機は、河童の千円札を飲み込んだまま止まってしまった。
「あっ、こら! 泥棒!」
言ったところで、機械相手に通じるわけがない。よく見ると、千円札のはしが、わずかに投入口から出ている。慎重にそれをつまんで引っぱるが、しっかりくわえ込んではなそうとしない。無理に引っぱるとちぎれそうなので、じわっと力を入れて引っぱってみた。ジーとかすかな音が聞こえて、やっと半分まで引っぱりだした時、ついに河童と自販機の板挟みになった千円札は、自らの身を犠牲にした。河童の手には、千円札の半分だけが残ったのである。
 ああ、これまた中途半端なことを。半分以上残っていれば、金融機関で交換してもらえるのに、よりにもよって、ちょうど半分なのだ。これでは、交換することもできないではないか。コーヒーも手に入らないし、このままでは千円も戻ってこない。この日は、悲しい思いで眠りについたのである。

 さて、翌朝。いつもより早く目が覚めてしまって、出航準備もいつもより30分以上も早くできてしまった。しかーし、パドルまで組み立てておいて、河童は自販機を持っている商店が開くのを待った。さいわい、島なので店の開くのも早く、千円の半券を渡して、新しい千円をもらってきたが、なんだかくたびれた。しかも、その後自販機に行くと、ほとんどが売り切れじゃないか。結局、この島では缶コーヒーが買えないままに、島を離れてしまった。田代島は漫画の島らしいが、河童の思い出としては、缶コーヒーのない島として、長く記憶に残るのである。

8月8日 田代島→雄勝町大須
 よく天気概況などで、「金華山の沖」という言葉を聞く。実はこの「金華山」というのが、牡鹿半島のすぐ東にある島の名前だというのを知ったのは、つい5年ほど前のことである。それまでは漠然と「ああ、東北地方の方だな」としか思っていなかったのである。だが、今回はしっかりとこの金華山を見てきた。なるほど、牡鹿半島のすぐ東に、400メートルもの高さでおったっていて、これはたしかに金華山なんだと実感した。この島さえなければ、牡鹿半島の先っぽ、黒崎が有名になれたのだろうに、金華山があるがゆえに、黒崎はついにその名を広めることはないのである。

 その金華山なのだが、河童は金華山どころではなかった。なぜならば、黒崎を回っていると、目の前の空域で、ブルーインパルスが飛行訓練しているではないか。そういえば、ブルーの基地は松島だった。密かに航空マニアである河童の目は、金華山なんぞよりも、当然ブルーのT−4に釘付けである。びっちり4機でダイアモンドを組んで低空でのロールを繰り返している。しかも、スモーク付きである。おおーと思ってみていると、なんと上向き空中開花をやった。これは、4機を上昇させながら90度ずつ4方向に展開するという技で、スモークがちょうど朝顔の花のようにできる。余談であるが、これを下向きにやる「下向き空中開花」という技があって、これは以前浜松基地の航空ショーで1機墜落して以来、禁じ手となっている。この墜落事故は、結局操縦ミスということで処理されているが、一部のマニアのあいだでは、何らかのトラブルでコントロールの効かなくなった機体を、パイロットが自分の命をかけて空き地(人間的空き地。たしか中古車展示場だったと思った)に落とした、と語り継がれている。

 金華海峡は、南からのうねりが入り込んでいて、ばしゃばしゃだった。海図を持っていないので、行ってみるまでわからないと言う怖い航海をしているのだが、海峡の北半分はそこが見えるぐらいに浅く、うねりがもりあがっていた。Y−14クラブの柄沢さんに作ってもらった特大ラダーの威力は、こういう時に発揮されて、どれだけうねりに押されてもコントロールが効く。ぐいぐいペタルを踏みながら海峡を抜けると、うねりはおさまっていった。

 この日の目的地は、出島(いずしま)だった。距離的にも30キロちょっとで、ちょうどよかったのだ。しかし、また島だと電波が通じてない可能性が高い。そこで、電波が通じている可能性の高い本土に、なんとかたどりつこうとした。こういう時、リアス式海岸というのは実に不便なもので、港はほとんど入り江の奥にある。このへんの入り江は、岬から4キロ5キロは当たり前に入り込んでいる。5キロといったら、かわうそ号で1時間の距離である。当然、入る時に1時間ならば、出る時にも1時間かかるわけで、往復2時間ということになる。よほどの理由がない限り、そんなところへ入る気はないのは当然のことだ。地図を見ると、出島の先7キロほど行った先に、大須崎という岬があって、ここにめずらしく岬の先端に港がある。40キロ漕ぐことになるが、何とか漕げる距離だし、なんと言っても本土である。きっと、電波も通じるに違いない。
 と思って、漕いだのだ。前日の逆風が効いていて、背筋がみしみし泣いた。ようやく5時近くになって大須にたどり着いた。びっしりフネが引き上げてある、これまでに見たことがないような急角度のスロープにかわうそ号を引っぱり上げたが、チェックしていると、H”どころか携帯の電波も通じない。地元の人に聞くと、防波堤の先っぽに行かないと、携帯は通じないと言う。ここまできてこれか〜と思うが、そう、いつもの通り、ここまできてこれなのである。ふんっ。

8月10日 大須→志津川町
 河童には自作仲間が多い。特にY−14クラブという自作同好会には、高校生のころから入っていて、もう20年近いつき合いがある。その自作仲間の1人、佐々木さんという人は、横浜でタクシーの運転手をしていたのだが、10年ほど前に突如としてバイクに乗って世界一周をした。言っておくが、このときで50歳を越えている。これだけでも、結構おもしろいのだが、なんと言っても佐々木さんのすごいところは、英語をまったく話さずに、これを成し遂げたという点にある。どうしたかというと、あちこちにいる日本人バックパッカーを捕まえては、彼らの食事と引き替えに通訳を頼み、それが見つからない時にはボディランゲージ、それに少々のテレパシーを使ったらしい。そのため、イランでは国境からテヘランへ500キロも戻ったりと大変だったらしいが、ともかく回ってきてしまった。河童のまわりには、こういう人がごろごろしていて、こういう人たちの中で育ってこなかったら、日本一周なんて考えなかったであろう。

 さて、この佐々木さんは、志津川町に小屋を持っている。海を見て暮らしたいという夢を実現するために、こちらに土地を買ったのだ。河童も、もちろん寄らせてもらうつもりできたのだが、連絡してみると、残念ながらご本人は横浜へ「アルバイト」に出かけていて留守と言うことだった。ただし、小屋は自由に使ってくれてかまわないという。そこで、岬から4キロも入った志津川町へやってきたのだ。
 いやいや、ここまで来るまでが大変だった。というのは、志津川湾の一つ南、追波湾というところには、北上川が流れ込んでいる。北上川の一部は石巻の町を通って仙台湾に注ぐのだが、水の大半は分水されて、直接太平洋にきているのだ。この追波湾が大変なところで、川からの水と親潮の分流だかが入り交じっていて、うねり、波、流れが全部バラバラに動いている。はじめは何がなんだかわからなかったが、たくさん浮いている養殖のブイを見ていて、これはいかんと気がついた。ただでさえ、川の水というのは、海水よりも軽いため表層に浮いて、これと沖から寄せるうねりが複雑に絡んで、河口付近というのはおかしな波が立つのだ。この場所は、これに加えて潮も加わっているようで、それほど大きくはないが、めっちゃくちゃな状況である。こんなところは、一気に乗り切るしかない。1時間全速で漕いでここを抜けた。また、背中が痛んだのは言うまでもないのだ。

 ところが、最後の最後で、また背中の痛むことが待っていた。佐々木さんの小屋はすぐわかったものの、一番近い港は、防波堤が一本あるだけでスロープがない。小さな和船も砂浜に引き上げてあるので、これはしかたない。千葉以来の浜上げである。2時間かかって、ようやくかわうそを引っぱり上げたが、背中は痛いと言うより、しびれている。

 しかし、佐々木さんの小屋は快適である。なにしろ、持ち主が留守なので、勝手に風呂を沸かし、勝手に入って、勝手にトラックを動かして、勝手にくつろいでいる。佐々木さんが、何をしたいのかがとてもよく理解できる小屋なのだ。

石塚君。
缶詰ありがとね。
河童の漕ぎ姿。
田代島で食事の用意。
日暮れまで1時間しかなかった。
これが上向き空中開花。
練習なのでスモークは白。
大須崎の夜明け。
ちなみに4時半だ。
大須崎の港。
集落は左手の山の中にある。
大須崎の灯台にて。
実はかなりへばっている。
北上川の流れ込み。
もう、むちゃくちゃで、どこを
通ればいいのか、さっぱりわからん。
悩んだときは、まっすぐいくのだ。
自作仲間、佐々木さんの小屋にて。
パソコンの入れ替えをしているのだが、
指が痛くて、うまく動かない。
考えてみれば、推進力はすべてこの指に
かかってくるわけで、痛んで当たり前か。