能登3回目

  2004年7月1日

最終レグ準備中

 ふと気がつくと7月に入っている。夏の間に、紀伊長島(正確に言うと違うけど。詳しくは去年の出発の時を見て)から蒲郡まで漕いでしまって、一応のゴールをしてしまおうと思っているのだが、予定もたてないうちに7月である。もっとも、紀伊長島から蒲郡は、天気さえ良ければ3日の行程なので、夏の仕事の合間をぬえば、そう連休をねらって漕がなくても、いけそうな気がする。ほとんど、天気次第なんだよね。高気圧が張り出してしまえば、べたべたになるからかわうそでも50キロぐらいはいける。なんとか、最後のレグぐらいは天候に恵まれたいもんだ。

 さて、うっかり漕ぎだしてしまったがゆえに、向かい風の中引くに引けなくなってしまった能登の続きである。
 む〜と思いながら、前を行くO島さんの後を漕いでいった河童なのであるが、今回、ラジオを忘れてきてしまって音がない。よく漕いでいる間何を考えているのか聞かれるが、何も考えずにラジオを聞いていたのだ。だから全国のAMローカル局の様子はよくわかった。しかし、今回はこれもないので、ひたすらに漕ぐしかなくなってしまった。雑念のかたまりの河童は、いろいろな雑念を思い起こしながらパドルを動かすのである。

 結局、なんだかんだといいながら、陸上サポートと連絡を取って、福浦という港に入ることになった。そこで、昼飯に弁当を食べようという魂胆である。サポートがいるとこういうことができるんだなあと思いながら、港に入っていった。この2年間漕いでいる間、昼飯を食いに港に入ったことは一度もない。朝出たら、そのまま夕方入るまで、ずっと海の上である。昼飯は、いいときコンビニのおにぎり、悪い時ビスケット、最悪何もなし、という状態であった。コンビニ弁当とはいえ、昼をまともに食べようなんて思ったこともない。そこで、港に入っていって、スロープにかわうそを引っぱり上げたのであるが、O島さんがやっと、
「もう漕ぎたくない」
と言ってくれた。まったく、言いだすのが遅い。出る前にいってくれれば、漕がずにすんだのに。
 まあ、風も悪くなってきたし、この辺で終わりましょうということでフネをあげてしまった。沖出しの風なので、これ以上無理すると危ない。よし、このまま今度は半島の東側、能登島に行こうという話になったのである。

 ところが、車はフネ2ハイを載せたまま、なぜか北に向かう。今回、予定をいうものをほとんど立てず、メンバーの1人が持ってきた地図は20年も前のものというありさまである。漕ぐのに必要な地図も、コンビニで売っている、県ごとの10万分の1地図を現地調達したというような状態で、能登に何があるのかさっぱりわからない。どうせまだ時間もあるし、地名を聞いたことだけある輪島というところにいってみようと、男3人の意見が一致したのである。
 そうして輪島に着いたのであるが、なにしろいいかげんな地図しか持ってない。よくわからないまま海岸でテントを張り、その夜は寝たのである。
 そして翌日、早起きしたというだけの理由で朝市を見に行った。とはいっても、誰も何も買わず、本当に「見物」だけで帰ってくるのである。

 その後、能登島に向かい、知人にあってかわうそを見てもらったのだが、そこでまた重大な選択をしなければならなくなった。というのは、サポートの2人はこのまま帰る予定で、河童はこのまま能登に残り、1人で漕ぎ続けるか、それともこのまま2人と一緒に帰るかという選択である。当初の計画では、このまま河童だけのこって漕ぎ続け、週末にまた迎えに来てもらう予定だったのだが、天候の具合があった。というのも、この時、結構大きな低気圧が接近してきていて、最低でもこのあと3日大荒れが予想されたのである。その後1日は風が吹くだろうから、そうすると漕げる日が1日しかなくなる。1日で漕げる距離はしれているし、だいたいたった1日のために、岐阜羽島−富山の往復を頼むのもあんまりである。しかし、天候が良ければ、少しでも漕ぎたい…、というジレンマに陥っていたのだ。能登島にある温泉につかりながら、どーしたものかと思い悩んだ。外はすでに雨が降り出している。

 結局、この先ゴールデンウィーク中に漕げる日はないと判断して、2人と一緒に帰ることにした。低気圧の通過を待つには、今は時間がない。
 この選択は、結果からいうと正解だった。帰ってみれば、天気は荒れに荒れて、飛行機が降りられなくなったりと大変な低気圧であった。無理して残らずによかった。

 というわけで、能登は老後の楽しみに取っておくことにするのだ。

輪島の朝市。
男3人でこんなところに行っても、
当然何も買わない。
能登島のガラス博物館。
すでに雲行きが怪しい。