2002年 怒濤の太平洋北上編
ようやく出航。 思い立ってからここまで3年かかっている。 2002年4月28日 |
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渥美半島から、遠州灘をヨットで引っぱってもらい ポーテージしようともくろんだ。 天候が悪くてヨットでのポーテージはあきらめた。 これはヨットの中で、健康診断を受ける河童。 ちなみに、ナースは本物。 2002年5月 |
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駿河湾を越えるのに一週間も天候待ち。 たどり着いた伊豆半島はきれいだった。 唯一くぐった穴。 穴はたくさんあったが、荷物が多いので、 くぐって遊んだのは、これまででここだけ。 |
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石廊崎。 ヨットでは何度も通っている。 昔、この沖で夜中に浸水させてあわてた。 本船ばんばんつっこんでくるし、どうしようかと 思ったなあ。 |
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弓ヶ浜。 今考えると、そのまま下田まで行ってしまえば 良かった。 確かにきれいだったんだが、その後天候が悪化。 足止めを食った。温泉はある。 2002年5月 |
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熱海を出航しようと思ったら、突如雲が…。 これはやばいと待機していると、なんと雹が 降り出した。30分ほど猛烈に吹き、あっというまに 去っていった。目に見える寒気ってのもすごい。 |
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よく見ると、手すりのところにトビがいる。 ベンチで野宿していたら、このトビに頭をけられて 目が覚めた。葉山御用邸の隣にある公園で、 警官が24時間警護にあたっているので、安心して いたらこのざまだ。だれかこのトビを不敬罪で 捕まえてくれ。 2002年5月末 |
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三浦半島長浜にて。 Y−14クラブのメンバーが集まる。 火曜日についたが、日曜日まで待てといわれ、 天候も悪くないのに1週間足止め。 横須賀のメンバーの別宅に潜み、 横浜へ遊びに行った。 2002年6月 |
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浦賀水道は渡りたくない、と館山から ヨットを呼んで引っぱってもらった。 このフネのオーナーはプロのヨットデザイナー なんだが、そんな話は一言も出ず、ひたすら 酒を飲んで酔っぱらう。 |
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千葉県野島崎。 このあたりは、バブル期に建てられたらしい ビルが建ち並ぶ。 誰が買ったんだろうねえと思いながら漕いでいた。 ちなみに河童は大学出てからずっと不況の中を 生きてきた。いい時代がない…。 |
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千葉県夷隅郡岬町にあるペンション「ガジュマル」 ちょっとしたいきさつがあって、泊めてもらった。 この普通の建物に、天然温泉の露天風呂がある。 もう一度行きたいところの一つ。 2002年6月 |
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九十九里浜で、この度唯一の沈をして ラダーが曲がった。さっそく、Y−14クラブの仲間に 連絡して作ってもらう。サイズも大きくしてもらった。 このラダーのおかげで、大きなうねりの中でも 舵がきき、安心して乗れるようになった。 |
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那珂湊マリーナで社長にたのんで、かわうそ号を クレーンで降ろしてもらった。 舵の交換やらなんやらで、1週間も滞在したのだが、 ここのメンバーはとても親切な人ばかりだった。 もう一度行きたい。 |
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茨城県北茨城市大津港にて。 台風が来たので避難しなければと思っていると、 地元の人が自動車工場を紹介してくれて、工場の 中にテントを張った。 |
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同じく大津にて。貝焼きを食す。 誘われてついていったレストランで、 ほいっと出されたので、ほいっと食べたんだが、 あとでとんでもない値段のものだと知った。 大アサリの貝殻の中につまっているのは、 ウニなんだな…。 ちなみにこのレストラン、マンダリンはめちゃウマです。 |
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またしても大津。 ソバを打つからと誘われて、なぜかそこで露天風呂に 誘われた。行って驚いたのは、露天風呂に滝がある。 春には桜、秋には紅葉がきれいなんだそうだ。 もちろん風呂につかりながら見るのだ。 五浦観光ホテルにて。 |
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大津にて。 突然伊勢エビが大漁になった。 もっとも、このへんの伊勢エビは安いとか。 一匹もってけ、といわれたが、あまり好きじゃないと 断った。なぜか漁師に「お前、通だな〜」といわれた。 漁師も、みそ汁に入れるぐらいのものなんだそう。 こいつは見た目よ、だって。 2002年7月 |
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やっと大津から出たと思ったら、小名浜で足止め。 ウニ漁師の小屋で野宿。 2002年はひどい年で、海が荒れてウニ漁もまったく できず。毎朝、漁師が集まってきては帰っていく。 一度こっそり出したが、すぐに引き返した。なぜか 漁師にばれて、「プロが出ていかないのに、おめーが 出れるわけねーだろー」とさんざん言われた。 ちぇ〜。 |
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小名浜を出られなかったもう一つの理由は、 この霧。ともかく真っ白になってしまう。 那珂湊から相馬あたりまで、この霧に悩まされた。 |
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福島の原子力発電所付近で、巡視艇がよってきた。 どこ行くんですか〜と聞かれた。 二管のオペレーションに聞いてくださいと答えておいた。 しかし、よくこんな小さなフネまで見つけるな。 旗とお手製のレーダー反射板はつけてたけど。 |
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なぜか装備品一式と写真撮影。 自転車はとにかく役に立った。 これがなかったら、うんとつまらなかっただろう。 もっとも、そのせいで遊びすぎて、日本一周が だんだんといいかげんになってきた。 河童的には、全然OKです。 |
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仙台の海賊さんと洋上ミーティング。 この後、引っぱってもらう。 ヨットからは、全然かわうそ号が見えなかったらしい。 いくら旗を立てていても、高さのないシーカヤックは 他船から見えない。 シーカヤックは、旗を立てるべきだと思う。 |
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仙台は、七夕祭りの前日だった。 映画を見て、買い物をした。 さとう宗幸が、仙台放送で夕方の番組に出ているのを 見て驚いた。生きてたんだ…。 |
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志津川湾にある友人の小屋。 ここにも一週間閉じこめられる。 台風が連続で来ていた。 |
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上の小屋に入っていたバイク。 使っていいよと言われたが、かなりのボロ。 エンジンをかけるまでに一苦労した。 もっとも、この小屋の持ち主は、バイクで世界一周した ライダー。河童のまわりにはこんな人がごろごろ。 でなけりゃ、日本一周も考えないだろうけどね。 十年ぐらい前にとったバイクの免許が、始めて役に立った。 なぜなら、この小屋の周りには、恐ろしく何もないからだ。 食料が切れかかって、本気で危なかった。 2002年8月 |
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友人の小屋を出て、今度は気仙沼の知人のところへ。 5キロも入ったところに住んでいるので、迎えに来てもらった。 かわうそ号は、引っぱられるのが好き。 |
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気仙沼にも河童がいるというので、会いに行った。 なかなかいいやつだった。 |
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「ホヤ」である。 タマゴンの卵ではない、と書いたところ、 「誰がタマゴンを知ってるんだい!」 というメールが来た。30代限定ネタが多いのも、 海道をゆくの特徴である。 |
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またしても知り合いのところにいく。 釜石の近くの港から、遠野の奥に連れていかれた。 ここでも1週間、山から水を引いたり土木作業に追われる。 ちなみに河童はシティーボーイで、田舎暮らしはしたくない。 でもなぜか、トラクターもコンバインも動かせるんだな。 |
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本州最東端のトドヶ崎。 写真ではわからないが、ものすごく流れている。 ここはそう簡単にいけないので、海から見た写真は 貴重である。 2002年9月 |
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ついに船底につけてあった摩材がすり切れる。 八戸で緊急修理。 とはいえ、自分で作ったフネなので、どうってことはない。 問題は材料の入手。自転車で30分も走って買いにいった。 2002年9月 |
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六ヶ所村で強風に遭い足止め。 9月も下旬に入って、秋が急速に深まっていく。 北国を実感する。 |
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ようやくたどり着いた太平洋側最北端の尻屋崎。 まったく台風多すぎだぞ〜と思いながら通過。 |
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青森に行ったら恐山。 ということで、かわうそ号を港において、バスで恐山に向かう。 死んだらここからあの世に行くらしい。 オーストラリア人の女の子とあれこれ話した。むふふ。 |
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津軽海峡に面した大畑という町にいた仙人。 実は英語塾を開いている佐藤さん。 この人の家の前にテントを張っていた。 毎晩のように誘われて飲んだ。 |
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青森には、こんなフネがある。 ブリッジも何もなし。 網をこのフネの上を通す。 冬はたまらんと思う。 |
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本州最北端、大間崎。 さすがに感動した。 2002年10月 |
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大間で、昆布漁師のお手伝い。 昆布は出荷するまでに手間がかかる。 北海道の昆布も見たが、個体差が大きいので、産地名より 実物で判断した方がいい。どこの産地でも、いいものはいい。 |
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竜飛岬。 2003年に再度訪ねるのだが、去年も来たやつかと あきれられた。 2002年の竜飛は、ともかく寒かった。 2002年10月 |
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竜飛岬。 高い崖になっているので、全貌が写らない。 |
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竜飛岬の100メートル沖。 川のように流れている。 結局、この流れが越えられず、通りがかった漁船に 少し引っぱってもらった。 河童より、ホンダ40馬力の船外機の方が強かった。 |
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青森県鰺ヶ沢町は、舞の海の出身地。 相撲の博物館がある。そこの目玉、舞の海の髷。 まあ、なんというか…。 |
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青森県岩崎村にて、これ以上進むのをあきらめる。 これじゃどうしようもない。 2002年10月20日 |
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トラックで帰る途中。 2002年の旅はこれで終わった。 もちろん2003年の準備のためである。 あきらめない、ということに関しては自信がある。 |